3.11
東日本大震災のあと、個人ボランティアに行っていた。
いわき市を選んだのは、多少土地勘があったため。
とにかくトイレットペーパーやカップ麺などを車に積んで、合計で3回行った。ちなみに、ツイッターアカウントを作ったのもボランティア情報を入手するためだった。
でも、ボランティアは3回で終わりになる。5月の連休明け、突然本社への転勤が言い渡されたのだ。何でも、災害対策要員を全社から集めていたらしく、当時解体されそうな部署にいた自分は「浮き玉」として動かし易かったのだと思う。
赴任当初は仕事の要求レベルも納期もメチャクチャハード、上司は最悪、肺炎で入院したりしながらもすごい勢いで働いた。
朝5時台の始発で会社に行って1時前の終電で帰る。行き帰りのグリーン車(自腹)は貴重な睡眠時間。出張先のはしごで、翌日の書類を作るために「こだま」に乗る、土日のどちらかは必ず出勤。夢の中でも仕事をしていて、夜中に起き出して夢の続きを形にしていたりしていた。
その時は少しも苦じゃなかったけど、子供が「このままじゃ過労死する」と母親に訴えていた事を、ずっと後になって聞いた。
で、2年間ひたすら「災害対策」を進めて、ほぼ全ての拠点の対策が終わった頃、恒例のキャンプがやって来た。帰り道、少し遠回りしていわきに寄ろうと考えた。
曇った空に寒々とした海、車を走らせ始めたその時、向こうから走って来る車の屋根に風船が見えた。その瞬間、信じられないほどの感情が湧き出した。よくわからないが泣きながら「いた!」と叫んでいた。
その車とすれ違った瞬間、身体がふわっと軽くなってぱたっと泣き止んだ。
2013年
その後、仕事は徐々に落ち着き、始発電車に乗る事もほぼなくなった。
2015年
そして、熊本地震での新しいミッション、北海道地震ではブラックアウトに遭遇し、コロナ対策では当然の如くメンバーに加わり、って感じで、ずっと災害対策に従事して現在に至る。
2017年
思い起こして見ると、本当によく持ったと思う。
あの時は確かに何もなかったけど、もうやりたくない。
で、おそらくなんだけど、生かされていたのだ。そして、守られていたのだ。
いわきで出会った多くの人達の無念の気持ちが乗り移って、自分を動かしていたのだ。
そしてあの日、帰る場所を見つけた彼は故郷の海に帰って行った。。
守ってくれて本当にありがとう。これからも自分の出来ることをやり続けます。
そして、お亡くなりなった方のご冥福をお祈りします。どうか安らかに。